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移住と「日系人の母」ミランダ女史
ミランダ女史について
ミランダ女史写真集
移住について
アグスティーナ・ミランダ・ゴンサレス女史を偲ぶ
社団法人日本パラグアイ協会
事務局長 岡山 嘉成
 ラ・コルメナの母、全日系の母と呼ばれたパラグアイ人。日本とパラグアイの架け橋、アグスティーナ・ミランダ・ゴンサレス女史を偲ぶ。

 2005年7月30日、一人のパラグアイ人女性が亡くなった。パラグアイ日本人移住者にとってかけがえのない人、日本人が大好きで大好きでたまらなかった人、「ラ・コルメナの母」「全日系人の母」とも呼ばれたその人は、その生涯をまさに日本人移住者のために捧げた。

 私は、青年海外協力隊1987年2次隊でパラグアイ共和国に派遣され、1988年1月から1990年2月まで2年余り同国にあった。私が赴任後ちょうど1年目にあたる1989年2月にクーデターがあり、34年間続いたアルフレッド・ストロエスネル政権が崩壊し、その後パラグアイが徐々にではあるものの民主化への道のりを歩み始めたことを思うと、この2年間はパラグアイ共和国にとって歴史的転換期であった。
ミランダ女史と日本人の関わり

 アグスティーナ・ミランダ・ゴンサレス女史は、1916年12月16日パラグアイ県イチビミに生まれ、1940年にアスンシオン市師範学校を卒業後、翌年3月パラグアイ最初の日本移住地(1936年開設)のラ・コルメナ第128高等小学校に校長として25歳の若き日の女史が赴任された。

 1941年といえばラ・コルメナ移住地開設5年目、周囲は未開の原野というべき状況であったはずで、この年の12月8日、日本は英国・米国に宣戦を布告し太平洋戦争に突入、パラグアイ日本人移住者は、まさに地球の裏側のラ・コルメナという移住地に孤立することになるのだった。

 パラグアイ共和国は連合国側であるから、日本は敵性国家となり、ただでさえ苦難の多い移住開拓は、悲惨ともいうべき状況となるのであるが、ミランダ女史は陰に陽に日本人移住者の庇護に尽力された。特に敵性国として日本人学校が没収され、日本語教育禁止令が出された折に、パ国文部省と折衝し、非公式ながら日本語教育の継続を図られたことは特筆すべき事柄であろう。

 その後、1951年に女史は大統領府官房に入られ、大統領府官房副長官として1989年のストロエスネル政権崩壊までその職にあった。

ミランダ女史との出会い

 クーデター後、言ってみれば失脚したような格好になられたわけであるが、ミランダ女史はそれまでと変わるところなくパラグアイ日本協会事務局長を勤めておられ、その事務所はその前年(1988年)新たに完成した「Centro Paraguayo Japonesa(パラグアイ日本人造りセンター)」にあった。

 帰国半年前の1989年9月に、私を含む4名の青年海外協力隊員とその配属先の職員生徒で展覧会(ちなみに私は写真が専門)をContro Paraguayo Japonesaで開催したが、その展覧会の開会式へ出席をお願いにミランダ女史をお訪ねしたのが、私とミランダ女史の出会いであった。

 事務所を訪ね、開会式への出席をお願いすると、女史はあの温顔をほころばせて「必ず出席する」と即座に答えられ、事務所に掲げられた天皇皇后両陛下の写真を指差して「オカヤマ、私は毎朝この事務所に入るときに、天皇陛下と皇后陛下にご挨拶するの・・・」と言われたことを思い出す。

ミランダ女史の日本訪問、天皇皇后両陛下に拝謁

 翌1990年2月に青年海外協力隊員の任期を終えて帰国したのであるが、帰国前からその準備に関与していた「国際花と緑の博覧会」(所謂「花博」)の、パラグアイ共和国政府代表代理となり、パラグアイブースの責任者を務めることとなるのであるが、同博覧会期間中2度ほど中間報告を兼ねてパラグアイに帰国(?)する機会があった。

そのうちの一度は、パラグアイ共和国の博覧会へ出展参加に際し、その費用の全額(恐らく7,000万円はかかったと思うのですが)を寄付して下さった社団法人日本パラグアイ協会杉尾榮俊理事長(当時)、鮫島紘男事務局長(現理事長)とご一緒のパラグアイ訪問となったが、杉尾理事長はミランダ女史のこれまでに日本人に対する尽力に深く感動され、ミランダ女史に何かご恩返しをしたいと申し出られた。

 私から杉尾理事長の意向をミランダ女史にお伝えしたところ、女史はこういわれた。「オカヤマ、私は日本人が好きで、ずっと日本人と一緒に仕事をしてきた。私はもう、お金も、車も、家も、何もいらないけど、私は生きている間にもう一度あなたの生まれた国に行きたいのです」と。

 これを聞かれた杉尾理事長は、その場でミランダ女史に日本招待を約束されたのであるが、帰国後、国際協力事業団の西野世界理事(当時、元JICAアスンシオン事務所長)にその模様をお話したところ、今度は西野理事が「岡山君、ミランダさんを天皇陛下に会わせようじゃないか」とのご意見である。

 それから1年余り、ある日西野理事から「岡山君、ミランダさん、天皇陛下に会えるぞ」、との連絡があった。「陛下が皇太子殿下の頃にパラグアイを訪問されたが、その折りミランダ女史のことについてご記憶があり、両陛下特段の思し召しがあって・・・」とのことである。

 ミランダ女史は、既に政府の公職にもなく、いわば「民間の一パラグアイ人」に過ぎない。

 陛下の拝謁について、ご尽力を頂いた西野理事でさえ、「岡山君、知っての通りミランダさんは公職にないから、僕はJICAの理事だけど、JICAで費用を出してあげられない。費用は何とか(杉尾理事長に)お願いしてくれよ」とおっしゃられていたものである。

 陛下への拝謁は、西野理事をはじめパラグアイを愛する多くの方々が、「ミランダ女史のために・・・」との一念でのお力添えと、何よりも両陛下の誠に暖かいお心によるものであることを、特筆しておきたいと思う。

 翌1992年5月ミランダ女史念願の訪日、日本各地の旧知の友人を訪ねての旅となったが、これには同じ青年外海外協力隊員(パラグアイ派遣)であった保壽亮一氏が全て随行してくれた。

 ハプニングは続き、日本訪問中のある日、協会事務局に、常陸宮邸官務官の方から「ミランダ女史が来日されているそうですね。(常陸)宮がお目にかかりたいと・・・」とのお電話があった。(常陸宮両殿下は日本人移住50周年の折にパラグアイを訪問されている。)

 その日京都にいた女史は急遽帰京、翌日私や保壽氏を含む協会関係者ともども宮邸にお邪魔し、両殿下より懇切なるお言葉を戴き、ミランダ女史のお蔭様で滅多にない体験をさせていただいた。

 そして帰国前日、念願の天皇皇后両陛下に拝謁を賜り、ホテルに戻られたミランダ女史が、ホテルの入り口で私の顔を見るやいなや、「オカヤマ、天皇皇后両陛下に私会ったの」を第一声に、部屋に入るところから、両陛下のお言葉、部屋を出るまでの一部始終、顔を紅潮させて話されていた。

 思い返せば、今でも鮮明にさまざまな思い出が蘇ってくる。しかし、私がミランダ女史を語るに相応しい者であるとは思えない。私よりもミランダ女史を知り、敬愛する人たちがたくさんいると思う。

 女史の最後の日本訪問のあとの「岡山君、ミランダさんを日本に呼べてよかったな」という西野理事の言葉は、そのまま私の思いでもある。そしてミランダ女史最後の訪日は、杉尾榮俊理事長(当時)のご支援と、西野世界理事の心からのご尽力により実現をみたものであることを、知る人も少ない事実であるので、この機会に公にしておきたいと思う。

 その後、歳月が過ぎ、1999年、陛下のご在位10年をお祝いする会(社団法人青年海外協力協会主催)において、私は天皇陛下とお話をする機会を得た。

 その折私が陛下に、「実は陛下とお話する機会がありましたら、かつてミランダ女史が訪日しました折に、陛下の格別の思し召しにより拝謁を戴いたことがありましたが、そのことについてぜひ御礼を申し上げようと思いました」と申し上げると、「昨年ブラジルに訪問した折、ミランダさんがサンパウロまでお見えになり、お目にかかりました。お元気そうで何よりですね」とのお言葉をいただいた。

 日本と日本人をこよなく愛したミランダ女史にとって、天皇陛下のこのお言葉は何よりのものであろうと思う。



 アグスティーナ・ミランダ・ゴンサレス女史が亡くなった。

 もうあの空港で、あの笑顔に会うこともなくなる。そのことがまだ私の中で現実にならない。

 今年はパラグアイへの日本人移住70周年という記念の年で9月には盛大な式典も予定されていると聞く。もしその折パラグアイを訪れる機会があるならば、その時女史を喪ったことを改めて感ずるに違いない。

 日本において、移住ということを知らない世代が過半を超え、移住の歴史も労苦も喜びも、全て歴史の彼方に消えようとしている。そして地球の裏側で、日本を愛し、日本人移住者に生涯を捧げた人がいたことなど忘れ去られていくのかもしれない。ほんの僅かあの国に過ごした私は、ミランダ女史のことを少しでも伝えたいと思い、この拙い文章を記したのである。
(!HORA!AMIGOS! No.56掲載より)
アグスティーナ・ミランダ・ゴンサレス女史没後1年追悼コンサート
 去る平成18年12月8日、12日の両日、しずぎんユーフォニア(静岡市)、と草月ホール(東京都港区)において、社団法人日本パラグアイ協会主催のパラグアイ日本人移住70周年記念(アグスティーナ・ミランダ・ゴンサレス女史没後1年追悼)コンサートを開催することができました。特に東京コンサー卜には、田岡功パラグアイ共和国駐日特命全権大使閣下のご臨席を賜り、何れも成功裡に終了することができました。
再びミランダ女史について

 前号(本紙56号)で、日本人のパラグアイ移住とミランダ女史の関わりについて、私個人との関わりを含めてご紹介をしたところ、「ミランダ女史についてもう少し詳しくその事績を紹介できないか」との指摘をいただいた。

 ご承知の通り、私自身とミランダ女史の関わりは、極めて短期的・限定的なものであって、ミランダ女史が日本人のパラグアイ移住に対して果たされた貢献についてお話しをすることに、私が決して適任ではないことは自明のことである。しかし、書籍その他で公開されているなかから、特に次の点については是非再度ご紹介をしておきたいと思う。

戦時下における日本人庇護について

 ミランダ女史が日本人移住者と関わりの契機は、昭和16年に創建5年目のラ・コルメナ移住地の第128高等小学校の校長として赴任されたことにある。ご承知の通りこの年の12月、日本は太平洋戦争に突入するわけであるが、戦時下「敵性国民」となった日本人移住者に対して、女史が陰に陽にその庇護にあたられ、特にパ国文部省と折衝の末に、非公式ながらも「日本語教育の継続」を図られたことは広く知られている。

 この折り、女史は師範学校を卒業されたばかりの25歳である。僅か25歳の女性の、あの戦時下に、かかる行為がどれ程の困難を伴うものであるかを思うとき、「一体何が女史を突き動かしたのか」と驚嘆し、翻って我が身に照らし、深く恥じ入り、そして言いしれぬ深い感銘を受けるのである。

1989年2月のクーデターによる失脚後について

 1951(昭和26)年、ストロエスネル政権が成立、女史は大統領府入りされ、後年官房副長官となられ、30有余年に余りパラグアイ政府の要職にあった。

 日本人移住者や関係者が、何事によらずミランダ女史から受けた恩恵については、例えば外務省や国際協力機構(JICA)などでパ国に在勤された方々ならば、ひとつふたつはご記憶にあるのではないかと思う。

 1989年2月のクーデターでストロエスネル政権が崩壊、女史は(所謂)失脚後も「パラグアイ日本協会」事務局長を務められてはいたが、女史の台所事情は非常に厳しいものであったらしい。

 移住者の方々や、日本政府機関も、まさに「ご恩返し」で、できる限りの支援をされていたようであるが、私が「大変そうだ」と感じるぐらいであるから、本当に窮しておられたのだろう。

 しかし考えていただきたい、30数年も政府の要職に(しかも軍事独裁政権と呼ばれた国家の)あって、失脚後直ちに生活に窮する人物がこの世界にどれ程いるか、ということを。

 日本人は幸いにしてかかる希有な人物を庇護者に持ち得たこのことに私は言葉で表現できないほどの喜びを覚えるのである。

そして今

 移住者は艱難辛苦を乗り越え、今日パ国で一定の成功を収め、パ国の国民は移住者を通じて、日本人の勤勉さを知り、日本人は信頼に足る国民としてパ国こ高い評価を得、日系人から初めて田岡功閣下が特命全権大使として任命を受けるまでになった。

 ミランダ女史が政権を去られてから17年が過ぎた。パ国の若い世代の人たちも、先のコンサートに見えられた方々も、女史を知らない方が多かったかもしれない。折角音楽をお聴きに来られて、私の下手な話を聞かされた皆さまには心からお詫びするほかないが、私は女史のことだけは是非お話ししたかった。こんな人が地球の裏側にいたことが、皆さまの心のどこかに留めていただけたら、これほど喜ばしいことない。

(!HORA!AMIGOS! No.57掲載より)
(本稿は、日本ラテンアメリカ文化交流協会発行の「Hola Amigos」56号及び57号への掲載記事を一部加筆修正したものです。)
<筆者紹介>
岡 山  嘉 成 (社団法人日本パラグアイ協会理事・事務局長)
青年海外協力隊昭和62年2次隊(職種:写真)で、1989年2月から1990年2月までパラグアイ共和国に派遣。帰国後直ちに、国際花と緑の博覧会パラグアイ共和国政府代表代理として政府参加出展を指揮統括(同年10月まで)。
青年海外協力隊神奈川県OB会長、かながわ国際NGO協力会議委員、我々のかながわを考える会幹事、あーすネットかながわ監事などを歴任。
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